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2018.04.18

レコード産業へ進出した名門の東芝(2)グラモフォーン建設部の立ち上げ〜書籍『ウェルカム!ビートルズ 1966年の武道館公演を実現させたビジネスマンたち』より。

text by リットーミュージック編集部

 ビートルズの来日をめぐって展開される、高度経済成長期のビジネス物語を描いた書籍『ウェルカム!ビートルズ 1966年の武道館公演を実現させたビジネスマンたち』から一部を公開。4回に分けて連載します。明治生まれの教養人で目立つことを嫌った「サムライ」のような紳士たちによって、日本の音楽史にビッグバンが起こるまでのドキュメント。

逃してしまった日本ビクターという大魚

 東芝倒産の危機を切り抜けた石坂泰三は次に組織の大改造を行い、事業部制を採用して新技術の導入などに取り組み、社内の刷新を進めていった。その結果、社長就任から3年後には、売上100億円を達成した。朝鮮戦争による特需と国内の復興が重なる運もあって、1953年には完全に再建の目処を立てたのである。
 重電部門では水力発電所の稼働や火力発電の装置、また需要の増えた電気機関車、ディーゼル機関車の生産で、戦後復興と肩を並べるかのように各事業を一気に軌道へと乗せた。一方弱電部門でもラジオが広く普及したことで、真空管のトップメーカーとしての優位性を確保し、続いて登場したテレビの製造と販売で売上を伸ばした。日本テレビと組んで始めた街頭テレビから、カラーテレビの開発にいたるまで、東芝の技術陣は本来の実力を発揮して業績を大きく伸ばした。
 泰三が当時の総理大臣、吉田茂から大蔵大臣に就いてほしいと頼まれたのはその頃のことだ。しかし、正直者の自分に政治家は務まらないと断り、その後も政治とは常に距離を置いている。
 東芝の業績はその後も順調に推移し、1955年に水車タービンの製造会社・電業社機械製作所を合併して、水力発電の分野での東芝の優位を強固なものにした。そして1957年に会長に就任した後には、石川島芝浦タービンを合併して、火力発電でも東芝の地位を磐石なものにしていった。その過程で石川島重工業の再建に取り組んでいた土光敏夫と出会った泰三は、その経営手腕に惚れ込み、後に東芝の社長を引き受けてもらっただけでなく、経団連会長の後継にも据えることになるのである。
 気分のいい時は童謡を口笛で吹くのが癖だった泰三は、東芝再建の目処が立った頃から、レコード産業に進出することを思い描いていたという。それは近い将来に重要になっていくであろう、ソフトウェアの仕事に取り組むことが目的だった。それと同時に労働争議の混乱のさなかに、ちょっとした手違いからみすみす手放してしまった子会社、日本ビクターの雪辱を晴らしたいという思いを抱いていたからだ。
 経済評論家の草分けとして知られる三鬼陽之助は、1966年に発表した著書『東芝の悲劇』の中で、戦前からの名門だった東京芝浦電気(東芝)を徹底的に分析している。そして競合する日立や松下電器と比較して、あまりにも名門意識が強過ぎることを危惧していた。そのために製造の現場が消費者の声に耳を傾けないこと、社内で下から上がってくる情報を幹部がキャッチできないことによって、慢性的な大企業病にかかっているのだと強く警告したが、その筆致にはかなり辛辣なものがあった。
 三鬼は子会社政策についても大企業病が如実に現れていると述べて、その一例として「逃した大魚、日本ビクター」という項を設けている。

 東芝の子会社は、いわゆる玉石混交である。いな、玉は少なく「石」が多くなった。昭憲皇太后の御歌ではないが、玉も磨かば石にひとしいが、東芝の子会社政策を見ていると、せっかくの玉を石として、捨てていることである。その代表的な例は、東芝が、日本ビクターを喪失した事件である。日本ビクターは、現在の不況期にあっても、あっぱれである。
(『東芝の悲劇』三鬼陽之助著/カッパ・ブックス)

 そもそも戦時体制下の頃、東芝は当時の2大レコード会社だった日本コロムビアと日本ビクターを傘下に収めていた。泰三は第一生命の専務だった頃から、日本コロムビアの監査役に就任して、戦後までその地位にあった。
 しかしGHQの指令によって行われた財閥解体により、1949年にふたつのレコード会社は東芝から分離されてしまう。そして1953年の春、経営難に陥っていた日本ビクターは、松下電器(現パナソニック)の傘下に入って再建が進められることになった。

レコード産業に対する泰三のこだわり

 アメリカのビクターが1927(昭和2)年に日本法人として設立した日本ビクター蓄音器株式会社は、2年後にRCAに本社が吸収合併されたことで、RCAビクターという社名になった。RCAは海外進出について、現地との合弁政策をとってきた。そこで1931年に東芝と三井財閥から出資を受けて、東洋一と呼ばれる蓄音機とレコードの製造工場を東芝の横浜本社に建設したのだ。
 経営基盤が強化されたRCAビクターは、アメリカから積極的な技術導入を進めて、拡声器やラジオなどの製造にも進出した。しかし音響機器や電波機器の将来性に着目していた日産コンツェルンによって、日本コロムビアとともに株を買い占められて傘下に入れられる。
 ところが1937年に日中戦争が始まると、国策として日産コンツェルンが満州に拠点を移したので、両社の株式は東芝に売却されることになった。東芝の傘下に入ったビクターはアメリカと日本の関係が悪化したことから、RCAとの資本関係が解消した後も、研究や技術開発でアメリカと交流を続けていた。それが戦後になってからの国産初のテレビ開発や、オーディオ技術へ結びついていくことになる。
 しかし本社や横浜工場、スタジオといったレコード制作に必須である施設を戦災によって焼失したために、戦後は事業が壊滅状態となってしまった。そこに戦後の労働争議が起き、その混乱による社長交代や負債の処理などが重なり、親会社を東芝から日本興業銀行へと移行することになったのだ。
 役員を派遣して再建計画を策定した興銀は、GHQが独占禁止法で銀行の保有株式を制限したことから、東芝にビクター株を譲渡したいと打診してきた。ところが興銀が懇願してきたにもかかわらず、交渉役だった久野元治取締役との間に解釈の違いなどが生じてしまい、松下電器が支援することで再建が決まった。それを知った泰三は怒ったが、時すでに遅しであった。
 松下幸之助に送り込まれた住友銀行出身の百瀬結は、徹底した経費削減案をもとに経営再建に取り組んだ。そしてテレビやステレオ、VTR、マルチサラウンド、プロジェクターなど、多数の技術を研究開発していたビクターを、電機メーカーとして大きく成長させることになったのである。手放してしまった日本ビクターが優良企業となったことで、泰三のレコード産業へのこだわりは収まらなくなり、外国事情に詳しい久野に指示して東芝の中にグラモフォーン建設部を立ち上げた。
 久野は1953年12月11日に英国EMI傘下のグラモフォンと、フランスのパテ・マルコーニ_ の2社と原盤供給契約を締結した。それと同時にレコード製造技術の確立と、プレス工場を設立するための準備にとりかかった。折しもレコードが78回転のSP盤の時代から、RCAが開発した45回転のシングル盤と、CBSが主導する33回転LP盤へと転換していった時期で、まさに新しい時代が始まろうとするところだった。
 そして1954年の秋に日本ビクターで洋楽部長を務めていた範一郎が、泰三の命を受けて東芝に戻ってきてグラモフォーン建設部に加わった。音楽や放送の将来性に期待していた泰三は、親族の中でも優秀だと評判だった範一郎に大きな期待を寄せていた。ビクターに肩を並べて追いぬくこと、それは企業家として面子と信念をかけた戦いであった。
 こうしてレコード事業を行う体制を整えて翌55年9月、最初にクラシックのレコードを発売したのが、東芝レコードの実質的なスタートとなる。だがこの時点では、レコード産業に従事したことがある社員が、範一郎を除いて誰一人いないという状態だった。範一郎は企画課長と販売課長を兼任することになり、それからまもなくグラモフォーン建設部は音楽事業部へと昇格し、さらにレコード事業部とあらためられていく。
 そして1960年10月1日、東芝音楽工業株式会社として独立する。そこで文芸部長の職についた範一郎には常務取締役の肩書がつき、経営者の一員として制作と宣伝を統括する立場になった。そこからの10年間、範一郎は制作と宣伝の責任者として、常に前線で指揮を執っていた。今風の肩書で言えば、エグゼクティブ・プロデューサーということになるだろう。

ビクター・レコードから戻ってきた石坂範一郎

 石坂一族の本家に生まれた範一郎は、分家の出身だった泰三とは縁戚にあたる関係であった。 戦前から日本ビクターに出向してレコード部門の要職にあったが、東芝に戻ることになるとビクター・レコードでは前代未聞の反対運動が起こった。所属歌手や従業員たちが「辞めないで下さい」と書いたプラカードを持って、築地にあった会社のまわりをデモしたというのである。そんなエピソードが語られているのは、それだけ周囲の信頼が厚かったということであろう。
 父と同じ慶応大学を卒業して1968年に東芝音楽工業に入社した石坂敬一は、東芝がレコード産業に参入したことについて、泰三の「弔い合戦」だったとインタビューで語っている。

 東芝のトップだった石坂泰三さんが「弔い合戦をやる」ということで、面子にかけてレコード会社を作ることになったんです。それでEMIというイギリスの国策的レコード会社と東芝が技術提携して、東京芝浦電気音楽事業部という部署ができたのが、昭和27年か28年頃です。戦前から戦後、東芝からビクターに行っていた父が東芝に戻って事業部長をやっていました。
(Musicman's RELAY第82回 石坂敬一インタビュー)

 レコード事業のためのグラモフォーン建設部が東芝の総務部の片隅にできたのは、1954年の4月20日のことだ。その当時の東芝は一日に1億円売ると言われて、年間の売上は400億に届こうかという勢いで、日本経済の一翼を担う巨大企業だった。そこがレコードを出すと大々的に発表し、日本レコード協会にも加盟したのである。小規模な産業だったレコード業界にとって、東芝の参入は激震となった。新聞や雑誌もニュースを大きく扱い、音楽関係者たちは成り行きを見守ったという。
 イギリスのEMIから派遣された技師の指導のもとで、川口市に新しいレコード製造工場が完成したのは翌年の4月だった。そして範一郎が契約した海外のレーベルからマスターテープを送ってもらって、第一回の新譜レコードを発売したのは1955年9月である。
 東芝レコードはここで一気呵成に市場に参入するのではなく、クラシックを中心にして、選びぬかれた良質の音楽を提供するという道を選んだ。そして当時のレコード店との商習慣を守り、穏便かつ慎重にレコード会社を作る準備を進めていった。最初は看板にするつもりだったフルトヴェングラーを中心にクラシックで地固めをして、シャンソンを中心としたポピュラー音楽をエンジェル・レーベルから発売した。そして日本で6番目のレコード会社として、ゆくゆくは邦楽制作の道にも踏み出していこうというのが範一郎の考えだった。
 しかし戦前からの大手5社(コロムビア、ビクター、テイチク、キング、ポリドール)は、専

属作家制度という日本特有のシステムで、主要な作詞家と作曲家を自らで抱え込み、彼らが他社に作品を提供することはもちろん、既存の楽曲を使用することも禁止していた。端的に言えば、他社の歌手や楽団にカヴァーさせなかったのだ。そのために邦楽制作への新規参入は、高い壁で阻まれている状態が続いていた。その壁は高いだけでなく、想像以上に厚く強固なものだった。
 東芝レコードは1957年8月にコーラス・グループのダークダックス、11月にタンゴ歌手の藤澤蘭子のレコードを出してみた。だがその程度のことでは、まったく先行きは見えてこなかった。自由な競争が認められていないということは、自由な音楽作りが行われていないということでもある。だが、どうにも思うにまかせない状況が続いて、東芝レコードは邦楽制作部門の突破口を探して長く苦しむことになる。


ウェルカム!ビートルズ

品種書籍
仕様四六判 / 416ページ
発売日2018.03.12