リットーミュージック

真実のビートルズ・サウンド[完全版]

『ザ・ビートルズ(ホワイト・アルバム)』

 1968年にビートルズが発表した『ザ・ビートルズ』。そのジャケットの白さから通称“ホワイト・アルバム”と呼ばれるこの作品は、2枚組全30曲という大ボリュームだった。彼らが設立したアップル・レコードからの最初のアルバムで、内容に統一感はなく、メンバー個々人の個性が強く出ている。レコーディング中は、メンバーそれぞれが自分を主張し始め、バンドというよりも4人のソロ・アーティストに他の3人がバッキングをするという状況に近かった。そしてできあがった作品は、“オルタナ”の先駆けと言えるような新しさに満ちていた。
 このたび、50周年記念のスペシャル・エディションが発売されるのを機にホワイト・アルバムの魅力を再確認してみたい。ビートルズの公式楽曲213曲をすべて解説した書籍『真実のビートルズ・サウンド 完全版』から『ザ・ビートルズ(ホワイト・アルバム)』の章を全文公開する。

The Beatles (White Album)

ザ・ビートルズ(ホワイト・アルバム)

1968年11月22日発売(英)

アップル・レコードからリリースした最初のビートルズのアルバム

 ビートルズが設立したアップル・レコードからリリースした最初の自らのアルバム。ポールが作風を気に入って尊敬していた、ポップ・アートの最先端だったデザイナー、リチャード・ハミルトンにジャケット・デザインを依頼した。ハミルトンのアイデアによるアルバム・ジャケットは白一色で、バンド名も載せず、シリアル・ナンバーを刻印して限定版のようなイメージにするというものだった。そのジャケットのイメージから『ホワイト・アルバム』という俗称で呼ばれることが多い。アルバム・タイトルもポールがハミルトンと構想を練っていて思いついた究極の『ザ・ビートルズ』というバンド名だけのタイトルになった。ポールはバンド名は白地のままエンボス加工で表すことを思いついた。

 ほとんどの曲はビートルズが超越瞑想を探求しに行ったインドのリシケシュで作った。そのためアコースティック・ギターで作った曲が多く、ジョンはピアノが欲しかった、と述懐している。

 インドの瞑想キャンプは、ジョージ以外のメンバーにとっては最悪な結果だった。

 ポールは「リシケシュでは沢山曲を作った。ジョンも想像力を発揮したよ。ジョージがそれにイラついて、“ 瞑想するために来たんだ。次のアルバムのために来たんじゃない” と言いに来たことがあった。ジョージは厳格すぎるきらいがあった」と言っている。

 帰国後の、このアルバムのレコーディングは、メンバー同士がいがみ合い、顔を合わせれば口論になるといったような、トゲトゲした雰囲気の中で行われた。

 このアルバムほど好き嫌いが分かれるアルバムはないだろう。レコーディングは、ビートルズのメンバー個人個人が自分を主張し始め、バンドというよりも4人のソロ・アーティストに、他の3人がバッキングをするというものに近かった。そこにはもうジョージ・マーティンの存在はほとんどなかった。そのきちんとプロデュースされていない作品群が、逆にメンバー各自の個性を良くも悪くも目立たせているためだ。

 ビートルズというグループの理想的な形は、ジョンとポールが感情的にではなくあくまで曲作りの面でライバル意識があって、対立しながらも補い合ってこそ成立するのであり、それをジョージ・マーティンがプロデューサーとしてコントロールしてきたものがビートルズであると思う。

 そうでなくなった原因のひとつに、ブライアン・エプスタインを失って無政府状態になったことがある。アルバムは途中からお手上げ状態になってしまった。さらに、ジョージ・マーティンやエンジニアのジェフ・エメリックの離脱という問題がある。そして、アルバムの主導権がポールからジョンに移っていたこと、それまでビートルズとプロデューサーとマル・エバンズとニール・アスピノール以外は入ることがなかったスタジオに、ジョンが常にオノ・ヨーコを連れてくるようになったこと。特にこのことはセッションの場を乱し、チームワークを乱した。ジョン以外のビートルズやスタッフは、一言も口を利かずに黙ってジョンについて回るヨーコに不気味さすら感じていた。

 ある日、ビートルズとジョージ・マーティンがコントロール・ルームでプレイ・バックを聴いていたときに、その場までついてきたヨーコに、ジョンが何気なく、どう思うかを聞いた。すると、驚いたことに、ヨーコが「かなりいいと思うわ。でも、もうちょっとテンポを速くしたほうがいいんじゃないかしら」と言った。スタジオは全員が凍りつき、ジョンの顔にまでショックと恐怖が浮かんだという。セッションはヨーコを無視して再開されたが、ヨーコが自己主張をしたそのときにビートルズの崩壊がスタートした、とジェフ・エメリックは書いている。

 ジョージ・マーティンは「ヨーコがスタジオに来て、常にジョンのそばにいた。彼女が病気になったとき、ジョンは彼女を家に寝かせておくのを嫌がり、スタジオに彼女のベッドが置かれた。ふたりの精神は完全に一体化していた」と言っている。

 ジョージ「ヨーコは、まさしく僕らの中に踏み込んできた、というよりジョンがヨーコと一緒に踏み込んできた。ジョン以外誰も知らない人がスタジオに来たのは初めてだった。年中、彼女がいるのは、とても妙な気分だった。僕は居心地の悪さを感じた」。

 ポール「ヨーコはジョンにいくつものアートの道筋を示していたのだと思う。僕らにとって困ったことは、そのことが僕らが築き上げてきた枠組みを崩し始めたことだ。ジョンはヨーコなしではいられなくなった。だけど、彼女がアンプに座るのは不愉快だった。“ ボリュームを上げてもいいでしょうか? ” とか“ アンプから降りていただけませんか” って、どう言えばいいのかわからなかった。ジョンがグループを離れたのは2人の障害になるものすべてを清算するためだったんだと思う。何と言ったって、僕らはビートルズだった。まるで僕らが彼女の家来になったみたいで、とても変な感じだった。『ホワイト・アルバム』はそんなぎくしゃくした状況の中で作られたアルバムだった」。

 リンゴ「スタジオにしょっちゅうヨーコがいるというのは、北部的な人間の僕らにはありえないことだった。僕ら4人の関係は密接で、家族のようなものだったから、ヨーコの登場は緊張を生んだ。ジョンはそうじゃなくても、僕らは他人からの度を越した干渉が嫌いだった」。

 ジョン「ポールはいつも丁寧にヨーコに近づいて、“もう少しうしろに控えていてはいかがです?”と言った。僕の目の届かないところで行われていたから、何がどうなっていたのか僕はわからなかった。僕らは愛の喜びに輝いていた。まわりはみんな、このセッションで彼女は何をするつもりなんだと、ピリピリしていた。いつも一緒にいたいというカップルだったというだけなのに、まわりにはなんとも異常な空気が流れていた」。

 ビートルズをデビューからリアルタイムで聴き続けてきた筆者には、このアルバムと後述する『レット・イット・ビー』の2タイトルのアルバムは、どうしても素直にビートルズのアルバムとは思えないのである。筆者自身のレコーディング・プロデュース40 数年の経験での、自分なりに出した結論としては、アーティストの完全なセルフ・プロデュースになると、どうしても作品が独りよがりになり、小さくまとまってしまいグレードが下がっていく、というのがよくある傾向だった。ビートルズでさえ4人がバラバラになると、そのパターンからは逃れられなかったのだと思う。

 同じ時間に別のレコーディング・スタジオで作業を進めることが多くなり、必死にグループをまとめようとするポールが必要以上にリーダーシップをとり、そのことに仕方なしに引っ張られつつ、メンバー同士反発を感じているという最悪の図式の中でのレコーディングであった。

 ジョンは、ほとんどビートルズというグループそのものに執着がなくなっていた。ポールのリーダーシップにますます反発するジョージや、ビートルズにとって自分は必要とされていないのかと暇をもてあますリンゴ、という状況でのレコーディングだった。

 2枚組にしないで1 枚にまとめたほうが良いアルバムになるというジョージ・マーティンの意見はビートルズに受け入れられなかった。

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  • ■解説収録アルバム
    『プリーズ・プリーズ・ミー』
    『ウィズ・ザ・ビートルズ』
    『ハード・デイズ・ナイト』
    『ビートルズ・フォー・セール』
    『ヘルプ!』
    『ラバー・ソウル』
    『リボルバー』
    『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』
    『マジカル・ミステリー・ツアー』
    『イエロー・サブマリン』
    『ザ・ビートルズ』
    『アビイ・ロード』
    『レット・イット・ビー』
    『パスト・マスターズVol.1』
    『パスト・マスターズVol.2』