LaidBack Feature日本の70年代
ハード・ロック名盤Japanese 70's Hard Rock Masterpieces
ギター・マガジン・レイドバックVol.16では70年代洋楽のハード・ロック名盤を特集したが、誌面に載せきれなかった日本の70年代ハード・ロック名盤をWebで紹介する。本誌と併せて読んでいただきたい。
文:近藤正義
2025.1.18UP
70年代の日本のロックは、まずはブルース・ロックの延長上に海外ロックのカバーを交えたゴールデン・カップスやPYGなどのGS残留組で始まる。そんな中でオリジナル曲によるハード・ロックが登場したのはブルース・クリエイション、フライド・エッグあたりから。そして73年頃から、サディスティック・ミカ・バンド、カルメン・マキ&OZ、四人囃子、外道など有名バンドがレコード・デビューする。ただし、どのバンドもハード・ロックの要素は持っているものの、オリジナリティが優先した音楽性が強く、純然たるハード・ロックの様式に収まっていたわけではなかった。
ハード・ロックとしての様式を強調したサウンドはクリエイション、紫、BOWWOWなど75年前後にデビューしたバンドで聴ける。その後、70年代後期には16ビート/フュージョンの波が押し寄せたり、一方では歌謡ロック化が進んだり、あるいはメタルの台頭だったり、80年代になってからのジャパニーズ・ロックはいわゆるハード・ロックとは違う路線へとシフトしていく。では、当時の洋楽ロック・ファンの耳を釘付けにした、70年代の日本のハード・ロックと呼べるアルバムをいくつかご紹介しよう。
『外道』外道 1974年
1973年のシングル「にっぽん讃歌」を経て、74年にライヴ盤の『外道』でアルバム・デビュー。75年に2ndアルバム『ライヴ・イン・サウンド・オブ・ハワイ・スタジオ』、3rdアルバム『JUST GEDO』、4thアルバム『拾得LIVE』をリリースし、76年に解散。その間、『郡山ワンステップ・フェスティバル』、ハワイの『サンシャインヘッド・ロックフェスティバル』、『後楽園サマー・フェスティバル』、『ワールドロックフェスティバル・イーストランド』などのロック・フェスに出演し、数々の伝説を残した。歌うギタリスト加納秀人のカッコよさ、トリオ編成の荒々しくラウドな演奏は、初期グランド・ファンクのような暴力性を持ったハード・ロックと言える。ファースト・アルバム『外道』はライヴ盤であることは承知の上で、あえてここで紹介しておきたい。
『カルメン・マキ&OZ』カルメン・マキ&OZ 1975年
1972年結成、74年のシングル「午前1時のスケッチ」を経て、75年に『カルメン・マキ&OZ』で待望のアルバム・デビュー。77年10月の解散まで2枚のアルバムを発表し、同年12月にレコーディングの完了していた3枚目のオリジナル・アルバム『Ⅲ』を、翌78年には77年のライヴを収録した『ライヴ』をリリース。大作的なセカンド・アルバム『閉ざされた町』、ポップな楽曲が並んだ『Ⅲ』に比べてハード・ロック的なサウンドが前面に出ていて、しかも「私は風」という有名曲が含まれていることから、ハード・ロックのアルバムとして選ぶならコレ。マキのボーカルの凄みもさることながら、春日博文の作曲能力とギター・ワークに注目したい。
『吼えろ! BOWWOW』BOWWOW 1976年
75年に事務所主導で結成され、76年に『吼えろ! BOWWOW』でアルバム・デビュー。海外のバンドに遅れをとらない本格的ハード・ロック・バンドとして話題となり、77年には来日したエアロスミスやキッスの前座も務めた。77年に2ndアルバム『SIGNAL FIRE』、3rdアルバム『CHARGE』をリリース。78年には再びキッス来日公演の前座を務め、ライヴ・アルバム『SUPER LIVE』をリリース。ここまでがハード・ロック・バンドとしての最初の期間。78年の4thアルバム『GUARANTEE』からは歌謡ロック路線となり、それを含めて5枚のアルバムを発表したが、83年に斎藤光浩が脱退して解散。何と言っても山本恭司の日本人離れした本格的なギター・プレイがバンド・サウンドの要であり、注目の的であった。デビュー前のこと、英語歌詞の「Heart’s On Fire」がNHK-FMの洋楽ロック専門番組で初めてオン・エアされた時、リスナーは誰も日本のバンドだとわからなかったというエピソードが、当時の日本のロック界の空気を伝えてくれる。
『MURASAKI』紫 1976年
1968年からの前身バンドを経て、1970年にジョージ紫を中心に結成された沖縄のロック・バンド。米軍基地周辺のクラブやライヴハウスを経営しながら、そこを拠点にライヴ活動を行う。75年の8月に大阪で毎年行われていたロック・フェス『8・8ロックデー』にて本土上陸出演。その模様はオムニバス・アルバム『’75 8・8 ROCK DAY LIVE』に収録され、日本人離れした演奏が話題となる。76年にアルバム『MURASAKI』でレコード・デビュー。同年、2ndアルバム『IMPACT』をリリースし、12インチ・シングル「FREE」(76年)、「STARSHIP ROCK’N POLLERS」(78年)も好評を博し、78年内にはアメリカ・レコーディング、ヨーロッパ各国でのレコード発売も予定された。しかし突然メンバーの音楽性の不一致を理由に解散。ディープ・パープルからの影響を受けたキーボードのアンサンブルを軸にしたサウンド、下地行男と比嘉清正によるツイン・ギターが注目され、限りなく洋楽に近い正統派ハード・ロックとして本土でも人気があった。
『ピュア・エレクトリック・ソウル』 クリエイション 1977年
前身であるブルース・クリエイションの2作目『悪魔と11人の子供達』(71年)がブラック・サバスなどブリティッシュ・ハード・ロックからの影響を受け、いち早くブルースロックからハード・ロックへ移行していた。75年6月にクリエイションとしての1stアルバム『クリエイション』、米国でマウンテンのフェリックス・パパラルディのプロデュースによる『クリエイション・ウィズ・フェリックス・パパラルディ』を経て、77年には人気曲「スピニング・トー・ホールド」を含む3rdアルバム『ピュア・エレクトリック・ソウル』を発表。1stアルバム『クリエイション』もブリティッシュ・ハード・ロックの影響下にある名盤だったが、本作では当時世界的な傾向だった16ビート、ファンクの要素を採り入れた竹田和夫のアップデートされたロック・ギターを堪能できる。