※本インタビューは、CD『鈴木茂&ハックルバック』(日本クラウン)のライナーノーツより転載しています。
ぼくは中学生の頃から、
ギターを弾くことを将来の職業として考えていた。
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"中学生のとき、実家の物干し台でバンドのメンバーと練習してた"
http://www.asahi.com/and_M/interest/SDI2016042247121.html
はっぴいえんど時代の秘話も飛び出しました!
http://www.hmv.co.jp/newsdetail/article/1604161001/
厳正な抽選の結果、鈴木茂さんの直筆サイン入りTシャツを3名様、同じくサイン入りクリアファイルを20名様にお送りさせていただきました。
- 鈴木 茂(すずき しげる)1951年12月20日、東京都生まれ。69年、伝説のロック・バンド、はっぴいえんどに加入。70年、1stアルバム『はっぴいえんど』をリリース。73年までに3枚のアルバムを発表し解散。その後、細野晴臣、林立夫、松任谷正隆とティン・パン・アレーを始動。さまざまなレコーディング・セッションに参加する。74年、単身LAに渡り、現地ミュージシャンを起用してソロ・アルバム『BAND WAGON』を制作。帰国後、アルバムのリリースに合わせて鈴木茂とハックルバックを結成し、全国ツアーを行う。引き続きティン・パン・アレーでも活動し、さまざまなレコーディングやライブ・サポートを重ねる。76年にはソロ・アルバム『LAGOON』を発表、以後5枚のソロ・アルバムをリリース。そのかたわら、スタジオワーク、ライヴ・サポート、アレンジャー、プロデューサーとしても活躍。中島みゆき、松任谷由実、杉真里、矢野顕子、EPO、小坂忠ら数多くのアーティストをサポートしている。03年には自らのバンド、鈴木茂BANDを結成し、ライヴ活動を本格化。14年には『BAND WAGON』再現ライヴ、15年には『LAGOON』再現ライヴを行い話題を呼んだ。近年はギタリストROLLYとハロウィン・ナイトを開催するほか、小坂忠&FRIENDS、林立夫、沼澤尚らとのAFTER SCHOOL HANGOUTでも活動している。また、自らの理想を追求したエフェクターの制作販売も行う。
鈴木茂オフィシャル・ウェブサイト
聞き手:長門芳郎(ビリーヴ・イン・マジック)「CD『鈴木茂&ハックルバック』(日本クラウン)のライナーノーツより転載」前編 「BAND WAGON」、そして、ハックルバック
長門 ハックルバックの最初のコンサートは当時の資料によると、2月11日の目黒区民センターだったんだけど、覚えている?
鈴木 杉野講堂じゃなかったっけ。
長門 あそこは、はっぴいえんどのLA録音帰国後の報告コンサート、忠さんとフォー・ジョー・ハーフとか出たやつだよ。
鈴木 あっ、そうそう。そうだね。目黒区民センターか、よく覚えていないな。
長門 2月15~16日は荻窪のロフトで、細野さんやはちみつぱい、バンブー、美奈子たちとのティン・パン・アレー・セッションで演奏してる。これは僕が企画していたからよく覚えている。バンブーのフュージョンぽいノリとも違うとても新鮮なカンジがした。茂以外の3人が大阪のミュージシャンだというのも意外だった。彼らは桑名正博の紹介だったっけ?
鈴木 そうかもしれない。たしかね、その前の年の暮れに大阪に行って、加川良さんのバック・バンドがどうだってことになって、加川さんの了解の下に会いに行ったわけ、大阪に。今にして思えば、随分ひどいことしたなとは思うんだけどね。加川さんに対しては。
長門 そうだよ。ディスってバンドだったよね。佐藤(博)さんとトン(林敏明)と田中(章弘)と、全員でしょ。
鈴木 根こそぎ持ってきちゃった(笑)。
BAND WAGON ひとりぼっちのアメリカ・レコーディング
長門 順序が逆になったけど、「BAND WAGON」のレコーディングのこと、ちょっと聞こうかな。10月から11月にかけて、単身、ロスに乗り込んで録音したんだったよね。
鈴木 そう。渡米する前にキャシー(・カイザー/はっぴいえんどのLA録音のコーディネイター)に手紙で、リストを書いたわけ。ドラム、ベース、キーボード候補のね。3人ずつ位。
長門 誰だったの?
鈴木 ベースにジェイムズ・ジェマーソンとか、チャック・レイニーとか、ドラムに……。
長門 ジェイムズ・ギャドソン。
鈴木 そう。あの辺の人たち。で、行ったら、結局、みんなダメだったんだけど。ただ、キャシーはリトル・フィートとアース・ウィンド&ファイアーのマネージャーと仲が良かったから。それがあって、ローウェル・ジョージだとか、はっぴいえんどの時にキャシーから紹介してもらったんだ。で、はっぴいえんどとBAND WAGONの間に一回、遊びで行ったことがあって。様子を見に。ロスで仕事をすると、どういうかんじかな、と思って。そこで、ストラト買って、デラックス・リヴァーブ買って、とりあえず、仕事はないんだけど、その時にロギンズ&メッシーナのドラムとベースの人がデモ・テープを作ると言うんで、楽器持っていって、ジャム・セッションしたり。そのようなことをして、で、帰ってきて、それから、キャラメル・ママとかティン・パンという話になって…、あのころ、ティン・パンはどっちかというとセクションみたいな、他人のプロデュースだとか、そういった方向だったじゃない。でも、僕としては、バンドっていうか、自分の曲をやりたいという気持ちもあってBAND WAGONを作るということになった。
ロスについてから、1週間位、メンバーが見つからなくって、あぁ、失敗したかなって、毎日ブラブラしてて。そしたら元ミュージック・ライフのきっこ(木原紀子)から電話があって、彼女の友人のダグ・ロウチ(サンタナ)がメンバーを集めてくれることになった。あくる日すぐ、サンフランシスコに飛んで行って、グレッグ・エリコ(スライ&ファミリー・ストーン)とか、デイヴィッド・ガリバルディ(タワー・オブ・パワー)とか、いわゆるオークランドのあの辺の連中とセッションすることになった。スタジオ(ディファレント・ファー)でレコーディングしてる時にアル・ディメオラとかレニー・ホワイトとか、遊びに来たりしたし、ドン・グルーシンとか。ようやく、うまくいったなと思って、じゃ、このままアルバム、サンフランシスコで作っちゃってもいいやと思ってた時にロスから電話があって、リトル・フィートがツアーから戻ってきたって。それで、最初に僕はリッチー・ヘイワードに電話して、レコーディングしたいんだけど、ローウェル・ジョージ以外のメンバー全員集めてほしいって(笑)。
長門 それで、茂の思い通りの音になった?
鈴木 うん。はっぴいえんどの時に、リトル・フィートのスタジオに行って、たまたま「ディキシー・チキン」のレコーディングをしてたんだけど、スゴいいい音してたんだよね。それで、リトル・フィートのアシスタント・エンジニアやってたひとにやってもらうことにした。そのひとの音作りがなかなかよくて、サンフランシスコで録った分もクローヴァー・スタジオでちょっと変えてもらった。
長門 しかし、よくひとりでやったよね。ひとりぼっちのアメリカ・レコーディング。
鈴木 うん。とにかく最初は60万円しか持っていってなかったから。そんなもの3日でなくなっちゃう。その場で払ってたから。今から思うと非常に乱暴なやり方だった。で、レコーディング初めて、むこうも、ホラ、ひとりっきりだからさ、こいつ本当にお金あるのかって、心配してるのがありありでさ。それで、クラウン・レコードに国際電話かけて、それで信用してもらって、振込むからってうまく話してもらって。でも今思うと、アルバムをお金の面も含めて、全部自分でプロデュースしたというのはいい経験になったね。
長門 それが本来の意味でのプロデューサーの仕事だもんね。でも、ホント、いい音してるし、すごくみんなノッてプレイしてるよね。
鈴木 今から思ってもやっぱり「BAND WAGON」の演奏って、いろんな要素があって、ああいう、リズムが弾けてる!というかさ、そんなカンジでできた理由っていうのは、レコーディングの時に特に「砂の女」なんかそうだったんだけど、他のも殆ど、そうだったんだと思うんだけど、弾き語りで、その場で歌って、殆ど3人で。僕がコード弾きして、ハミングで歌って、それでOKテイクを作って、あと、歌をやり直したり、ギターを少し足したりとか……基本がライヴだからというところがあるのかもしれないね。
(1996年3月21日、渋谷にて)
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『PIED PIPER DAYS パイドパイパー・デイズ 私的音楽回想録1972-1989』 70年代はシュガー・ベイブ~ティン・パン・アレー~細野晴臣のマネージャーとして、80年代は伝説のレコード・ショップ、パイドパイパーハウスの店主として、国内外の音楽シーンを見つめてきた長門芳郎による初の回顧録。
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