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二井原実が回想する「あの人との出会い」
text by 二井原実
あの頃(1970年代)は、ラジオやテレビでも洋楽を扱う番組が今よりもずっとあって、音楽雑誌もいろいろとあった。
プロモーション・ビデオというやつを目にする機会も徐々に増えてきていた。
関西では、かまやつひろしさんが司会をする『ハロー・ヤング』という番組もあった。
アマチュア・バンドが出演して審査員に評してもらえるというコーナーがあり、そこに登場してディープ・パープルの「紫の炎(原題:Burn)」を完璧に演奏していた高校生バンドが、他ならぬレイジーだった。
レイジーは高校生の頃に、まさに彗星のごとく現れた。僕自身のまわりでも、かなり話題になっていた。
そうこうしているうちに彼らは東京に出て行って、1977年にはメジャー・デビューするわけだけども、その時には完全にアイドル的なイメージになっていた。
同世代のくせに凄腕の、本格的ハード・ロック・バンドだと思っていたのに、いつのまにかベイ・シティ・ローラーズのようになっていた。
そういった現実を目の当たりにしながら、僕は高校生ながら「ああ、デビューするってこういうことなんやな」と思っていた。
つまり、大人たちによって変えられてしまうものなんだ、と。
今だからこそ言えることだけど、当時は〝ああなってはアカン〟という見本のように見ていたところもあったように思う。
それから時間は流れ、大学3年生の時に、見知らぬ人から電話がかかってきた。
僕は当時、京都の大学の近所に下宿していて、共同電話が一台あり、それが鳴れば誰かが受けて、用件をメモして残しておくことになっていた。
ところが僕はほとんど下宿に帰らないような生活をしていたから、実家にまで電話がかかるようになっていた。
そんなある日、おふくろから「なんかあんた、東京のレコード会社の人から何回も電話がかかってくるんだけど」と言われた。
「連絡を取りたい言うとるで」と。
そこで、もらった電話番号にこちらから連絡してみると、応答してくれたのはあるギタリストの面倒を見ているというレコード会社のプロデューサーで、「ちょっと君に会って話をしたいことがある」と言ってきた。
その人は、そのギタリストを連れてわざわざ京都までやって来てくれた。
三条にある喫茶店で待ち合わせてみると、その人と一緒にいたのは、テレビで見たことのあるレイジーのギタリスト、高崎晃だった。
それがタッカンとの初対面の機会になった。
にいはら・みのる●1960年3月12日、大阪府出身。1981年、ラウドネスのヴォーカリストとしてプロ・デビュー。1980年代半ばには海外にも進出、ビルボードTOP100にチャートイン、マジソン・スクエア・ガーデンでライヴを行うなど、日本人初の快挙を次々に成し遂げる。1988年にはラウドネスを脱退するが、ソロ名義の他、デッド・チャップリン、SLY、X.Y.Z.→Aといったバンドのフロントマンとしても音楽活動を継続。2000年にはオリジナル・メンバーで活動することになったラウドネスに復帰、コンスタントにアルバムをリリースし続けている。ライヴ活動は日本国内にとどまらず、ヨーロッパを中心として、アメリカ、アジアの国々など、文字通りワールドワイドに行っており、世界中のファンを熱狂させ続けている。
二井原実 自伝 真我Singer
品種 | 書籍 |
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仕様 | 四六判 / 272ページ |
発売日 | 2018.03.12 |