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2018.04.11

レコード産業へ進出した名門の東芝(1)石坂泰三というカリスマ経営者〜書籍『ウェルカム!ビートルズ 1966年の武道館公演を実現させたビジネスマンたち』より。

text by リットーミュージック編集部

 ビートルズの来日をめぐって展開される、高度経済成長期のビジネス物語を描いた書籍『ウェルカム!ビートルズ 1966年の武道館公演を実現させたビジネスマンたち』から一部を公開。4回に分けて連載します。明治生まれの教養人で目立つことを嫌った「サムライ」のような紳士たちによって、日本の音楽史にビッグバンが起こるまでのドキュメント。

マッカーサーに一矢を報いた泰三

 1886(明治19)年に埼玉県大里郡奈良村(現・熊谷市)に生まれた石坂泰三は、父が豪農の末子で分家を受け継ぎ、35ヘクタールの田畑を所有する地主であった。しかし向学心に燃えていた父は東京に出て家庭教師や書記などの仕事をしていた。母も子供たちの教育を考えて早くに上京し、家事をする傍らでわが子たちに四書五経や文選、唐詩選など漢書の訓読を教えた。この基礎的な教養が泰三の将来に有益なものとなった。
 家計にあまり余裕がないことを知っていた泰三は学費が安い陸軍士官学校を目指し、城北中学(現・戸山高校)を受験したが不合格になった。この時両親の間では商家への丁稚奉公の話も出たらしい。だが泰三は父母に懇請して一年の猶予期間をもらうと、翌年は東京府立一中(現・日比谷高校)に合格した。そこからは旧制第一高等学校、東京帝国大学法科大学(現・東京大学法学部)とエリートコースを進んだ。

 府立一中時代の同級生には後に作家として大成する谷崎潤一郎がいた。東大時代の仲間には農務省の官僚から政治家に転身し、小松製作所の社長になった河合良成がいた。河合とはお互いに財界人として活躍し、経団連の会長時代には相棒役の理事として頼りにし、終生をともにしたと言える間柄だった。
 同じく官僚出身で読売新聞の社長になった後、日本テレビを作ってメディア王になる正力松太郎、東急グループの総帥として活躍した五島慶太など、東大の同級生には個性的な逸材が揃っていた。泰三は晩年までその頃の仲間たちと、常に良好な関係性を保って交友していた。
 1911(明治44)年に高等文官試験(高級官僚の採用試験)に合格した泰三は、エリートの証しであった大蔵省や内務省ではなく、あえて逓信省を選んでいる。これは序列上位で入省したほうが、出世が早いだろうと考えたからだった。ところが入省から4年目に、部下の汚職の責任を問われて戒告処分を受けることになる。汚職は前任課長時代のことであり、泰三に関係はないことで承服しがたかったのだが、役所の決まりには従うしかなかった。
 そんな時期に逓信省の上司や大学の恩師を通じて、第一生命の矢野恒太から引き抜きの話が持ち込まれた。そこで強く誘われたのを機に、逓信省を4年で退職する道を選んだ。泰三自身の言葉によれば「本人の知らないところで、人身売買が行われ」ていたとのことで、その流れに逆らわずに転職することにしたのである。泰三自身は官から民に移ることにさほど抵抗はなかった。ところが妻の雪子に話すと、「私は官吏の嫁に来たのであって、保険屋の嫁に来たのではありません」と強く反対されたという。これは雪子の言い分がもっともで、東大法学部を出て高級官僚になったのに、小さな保険会社のサラリーマンに転職するというのは、当時の感覚ではエリート街道から脱落してしまったも同然に受け止められたのだ。
 当時の第一生命は保険業界30数社中で13位の売上で、社員は70名内外という規模だった。実際に泰三が第一生命に勤務してみると、なるほど逓信省時代とは待遇に雲泥の差があると感じたという。矢野社長は泰三をしばらく自分の秘書として使った後、入社の条件に泰三と約束した欧米留学を実行してくれた。およそ2年間、単身で欧米諸国を歴訪した泰三は、ニューヨークのメトロポリタン保険会社で保険業について学び、国際人としての感覚を身につけたビジネスマンとなって帰国した。
 それからは35歳で取締役に昇進し、48歳で専務取締役になり、1938(昭和13)年には52歳にして社長に就任している。この間に第一生命は大きく躍進して、業界2位の地位を確保するまでになった。その間に成し得た泰三の業績は以下のようにまとめられる。

・IBM式会計器の導入による作業能率の増進
・新社屋の建設
・外交員の待遇改善
・資金の運用

 専務取締役時代に施工を手がけて、社長就任と同時に落成した新社屋は地上8階地下4階、総工費1600万円、日比谷界隈でも群を抜く立派なビルだった。このビルを終戦後に接収した連合国軍総司令部(GHQ)のマッカーサー元帥は、泰三が使っていた社長室をそのまま引き継いで執務した。マッカーサーが「壮麗で堅牢、威風堂々たるこの建物、どういう人物がここの主か、その顔を見たい」と言ったが、泰三は「用があるならそっちから来るのが筋だ」として、出頭命令に近い要請を断ったというエピソードが残っている。

我々は伸びんとすれば先ず縮まることを要する

 太平洋戦争が終わった翌年、泰三は60歳で第一生命を退職することになったが、GHQから公職追放の仮指令を受ける身となっていたために、退職金が支給されなかった。それからしばらく浪人生活していると、追放が解除されることがわかった。そこに三井銀行頭取の佐藤喜一郎の仲介で、東京芝浦電気(東芝)を再建してほしいという話が持ち込まれた。
 戦前の東芝は最大の総合電機メーカーで、日本で五指に入る大会社であった。戦時中に政府や軍部の方針のもとで膨張を続け、一時期は10万名を越す従業員を擁した。しかし戦後はGHQの財閥解体政策のために、膨張した事業が切り離されたこともあって、従業員の数は2万8千名にまで激減してしまった。しかも共産党が指導する労働組合が力を持ち、経営側との紛争が泥沼化して収拾するのが不可能に見えていた。倒産は時間の問題とまで言われて、誰も再建を引き受けようとはしなかったのだ。
 そんな状況の東芝に乗り込んだ泰三は、1949(昭和24)年4月5日の社長就任にあたって、再建のための重要優先事項として以下の4項目を掲げた。

①経営組織の改革と人事の刷新
②過剰人員の整理
③合理化のための資金調達と設備の更新
④アメリカのゼネラル・エレクトリック(GE)社との関係修復

 6月には「全東芝従業員諸君に告ぐ」という文書を配布し、腹を割って話し合おうと協力を求めた。
 従業員諸君、我々は伸びんとすれば先ず縮まることを要する。余は就任早々この再建に直面し多少なりとも犠牲者を出すこと甚々忍び得ざる処なるも、大局上このほかに途なきを確信する以上、諸君に於いても能くこの事態を認識し協力せられんことを切に希望する次第である。

 泰三は東芝に来る時、腹心の部下というような者を誰一人として連れて来なかった。単身で乗り込んだのには明確な理由があった。一人ならば出処進退が自由に判断できるが、誰かを連れて行った場合には、もしもの時にその人の家族の生活まで考えねばならなくなる。情実で思うような判断ができなくなったら、とても大役が務まるわけはないと考えての判断だった。
 泰三は身動きが取れない断末魔のような状態にあった東芝を、政府に大型の融資を斡旋してもらうことで再建しようと考えた。そのためにはどうしても6000名の社員を解雇し、人件費の負担を軽くしなければならなかった。そのことを労働組合の幹部たちと直に会って話し合い、正々堂々と持論を粘り強く説いていった。
 それまでの経営陣が逃げまわってきた労使間の団体交渉にも、泰三は自ら率先して出席して話し合った。そんな飾らない人柄と理にかなった主張で、組合側からもそれなりに信用されていった。その頃に起こったのが、国鉄が3万人の職員に対して整理通告を行った翌日、総裁の下山定則が行方不明となって常磐線の線路脇で轢死体で発見された〝下山事件〞である。迷宮入りすることになったこの事件をきっかけに、GHQは膨張する労働運動に対する監視を強めるようになり、マスコミと世論のストライキや組合活動に対する態度にも変化が現れ始めた。

 泰三が社長に就任して8ヶ月後、12月10日に労組との間で協定書が交わされて、先の見えなかった東芝の大争議に終止符が打たれた。銀行を中心とした協調融資を得た泰三が設備投資を本格化させていくと、1950(昭和25)年に朝鮮戦争が勃発する。そこからアメリカ軍の物資調達の特需が到来して、製造業に追い風が吹き始めた。東芝は時の運も味方にして倒産の危機を回避し、1950年下期には黒字を計上することができた。


ウェルカム!ビートルズ

品種書籍
仕様四六判 / 416ページ
発売日2018.03.12