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2021.05.18

セクシー歌謡全盛時代(1)

text by 馬飼野元宏

歌謡史の裏街道的な扱いを受けながらも脈々と生き続けてきたセクシー歌謡の100年をまとめた『にっぽんセクシー歌謡史』が5月21日に発売される。奥村チヨや山本リンダといったセクシー系歌手のルーツを探り、その進化と変貌のプロセスを検証した大作である。本書の中から「セクシー歌謡全盛時代」の章を5回に分けて丸々公開する。ぜひご一読いただきたい。

山本リンダのカムバックと3つのキーワード

 お色気歌謡が大きな局面を迎えたのは、1972年のこと。

 この年、「経験」「めまい」などの大ヒットを放ち、お色気歌謡のジャンルに革命的な変化をもたらした辺見マリが、西郷輝彦との結婚を機に芸能界を引退する。同様に、先駆者的存在の奥村チヨも71年末に発売した「終着駅」が72年にかけて大ヒットし、従来のお色気歌手のイメージを払拭、次のステップへと進んでいった。

 彼女たちに代わって登場してきたのが山本リンダである。山本リンダは66年、15歳時にミノルフォンから「こまっちゃうナ」で歌手デビューし、舌足らずのカマトト声で歌う、当時で言うところの「可愛い子ちゃん歌手」であったが、その後は低迷し、71年にキャニオンに移籍。その第2弾として放たれた72年6月5日発売の「どうにもとまらない」で、セクシーな衣装と激しいボディ・アクションを売りにしたパフォーマンスで人々の度肝を抜き、オリコン最高3位の大ヒットを記録。みごとカムバックを果たした。

 山本リンダ復活の衝撃度を推し図るキーワードとしては、「変身」「アクション」「女性上位」の3つがある。
 まず「変身」だが、平たく言えばイメージ・チェンジ。どんな歌手でも人気があるうちはイメージを変える必要はないが、低迷してくると違う方向性を要求される。女性歌手の場合は清純派イメージから、セクシーな大人の女にイメージを変えることで、新たな客層を得ることが可能であった。園まりや奥村チヨのケースも同様だが、彼女たちは売れていなかったわけではなく、大人の歌手への方向転換と、潜在的なニーズが一致したものと呼んでいい。逆にリンダの場合は、完全にそれまでとは別人、として世間に再登場してきたのである。イメージ的には、お色気要素を除けば「人形の家」の弘田三枝子や「白い蝶のサンバ」の森山加代子の復活劇に近い。

 「アクション」とは振り付けのことで、激しいボディ・アクションで観る者を釘付けにするスタイル。同時期に欧陽菲菲が「恋の追跡」で見せたハードな動きと共通するが、リンダの場合は一の宮はじめという振付師の考案した動きであり、菲菲のアドリブ的なアクションとはやや異なるが、ここまで激しくステージ上を動き回る女性歌手はかつていなかったため、その点でもリンダはパイオニアと呼んでいいだろう。これは都倉俊一の作曲した一連の楽曲が、すべて強いビートを伴うハイテンポな楽曲であったことも要因のひとつ。

 「女性上位」は、阿久悠が描き出した女性観である。基本的には男女が愛し合うまでの興奮や高まりを歌っているのだが、リンダ歌謡はすべて、女側が男を選んでいる構図になっている。「どうにもとまらない」の歌詞1番で、今夜は誰と踊ろうか、それともあの人に熱い心をあげようか、と歌っている通り、主人公の女性に対して複数の男、という設定が多い。山本リンダの楽曲ではこの点が最も革新的で、ウーマン・リブ運動の波及や女性の社会参画が際立ってきた時代の、女性上位宣言とでも呼べる「歌謡曲内における女性の意識向上」であった。「恋の奴隷」「経験」「どうにもとまらない」をこの順番で聴いてみれば、お色気歌謡における女性の立場や意識の変化が手に取るようにわかるだろう。お色気歌謡、という歌謡曲の中で明確に「男性にとって都合のいい」世界観も、ここへ来てドラスティックな変化が起きていた。

 また「変身」と「アクション」については、どちらもテレビ時代のパフォーマンスを意識した戦略である。テレビの登場以来、歌謡曲(レコード業界)とテレビ番組は密接な関係で成長してきたが、70年代に入り、音楽番組はもちろん多くのテレビ番組が白黒放送からカラー放送に切り替わり、受像機の台数もカラーテレビの販売が飛躍的に伸び、この72年に初めてカラー受像機が白黒受像機の台数を超えた、と言われた。山本リンダの派手な衣装や激しいアクション、見た目をがらりと変えた「変身」の戦略はいずれもカラー時代の歌番組に対応したものであった。リンダの復活プロジェクトは、フジ=サンケイグループの主導で行われ、彼女がグループ傘下のキャニオン・レコードに移籍してきたことで、同グループを挙げてプッシュしたことも大きかった。

 山本リンダ以降の、こういった「女性が性愛を対象に歌う歌謡曲」は、従来のお色気歌謡とは異なり、歌手の技巧のみならず、ビジュアル面を含めた戦略がより強調されている。その先駆者を辺見マリと捉え、ゆえに彼女以降のこの傾向の歌手及び楽曲を、便宜上「セクシー歌手」「セクシー歌謡」と呼ぶことにしたい。
 山本リンダの爆発的な人気は、これ1曲ではおさまらず、同年には同じ阿久悠=都倉俊一コンビによる「狂わせたいの」「じんじんさせて」を立て続けにヒットさせ、一躍時代の寵児となった。

1973年とセクシー歌手たちの氾濫

 1973年に入ると、新たなセクシー歌手がシーンに参戦してくる。ただ、同時に歌謡曲史においてもエポックな年であった。現在、我々がよく口にする「昭和歌謡」の原型的なものは、大体この年に出揃ったと見て間違いない。幾多のジャンルの隆盛や業界の再編成などが、一度ここでおさまり、安定し、発展していく時期であったと言えるだろう。

 その年の傾向を推し量る基準として、日本レコード大賞の新人賞があるが、73年の新人賞受賞者は、最優秀新人賞が桜田淳子。他4名の新人賞はアグネス・チャン、浅田美代子、安西マリア、あべ静江。惜しくも5枠に入らなかった山口百恵や、同年9月デビューと遅かったキャンディーズを加えれば、正統派保守本流(淳子)とカウンター(百恵)、異国出身(アグネス)、テレビドラマとのタイアップ(浅田)、フォーク&年上女性(あべ)、セクシー系(安西)、グループ(キャンディーズ)といった具合に、女性アイドル・ポップスの類型はほぼこの年に出揃っている。一方で先行して人気を得ていた小柳ルミ子、南沙織、天地真理の「新三人娘」もこの年が人気のピークで、ことに天地真理は代名詞ともなった「恋する夏の日」がこの年、彼女にとって最後のオリコン1位を獲得。72年デビューの麻丘めぐみは「わたしの彼は左きき」でやはり最初で最後のオリコン1位を獲得し、人気のピークが訪れる。
 
男性陣は郷ひろみ、西城秀樹、野口五郎の「新御三家」の人気が圧倒的になり始め、それとは別枠で、一世代上をターゲットとしていた沢田研二が「危険なふたり」の大ヒットで日本歌謡大賞を受賞、ソロになって以来最初の絶頂期にあった。他にも布施明、尾崎紀世彦、堺正章らポップス系男性歌手の人気も充実。一方では五木ひろし、八代亜紀、森進一ら演歌勢の人気も高く、彼らはポップス歌手と同様にローテーションでシングルをリリースし、ことごとくヒットチャートの上位に送り込んでいった。そして同年の年間1位はぴんからトリオの「女のみち」である。

 また、子ども層をターゲットとしたフィンガー5が「個人授業」で大ブレイクを果たしたのもこの年である。まだフォークやロックの人気は局地的であり、井上陽水の『氷の世界』がリリースされるのはこの年の12月。

 こうした動きの中に、セクシー歌手たちの氾濫もあった。ビジュアル面とアクションを強調したセクシー歌手たちもまた、この1973年がピークとなったのである。
 山本リンダは前年の勢いを引き継いだまま、同年2月25日に決定打とも言うべき「狙いうち」を発売、以降も「燃えつきそう」「ぎらぎら燃えて」「きりきり舞い」とリンダアクション歌謡を連打し、人気をキープしている。さらに同年6月には全く売れなかった清純派歌手・中島淳子が夏木マリと改名し「絹の靴下」で再デビューしブレイク。さらに同年夏には安西マリアが「涙の太陽」で登場。

 アクション系のセクシー歌手では、71年に「雨の御堂筋」で大ヒット・デビューを飾った欧陽菲菲が前年の「恋の追跡」に続きこの年も「恋の十字路」をヒットさせている。さらにはベテラン・シンガーの金井克子が印象的な振り付けとともに「他人の関係」で大ヒットを放てば、同年秋にはこれまた売れなかった女性歌手・大形久仁子が内田あかりに改名し「浮世絵の街」で第一線に浮上してきた。ここに、テレビ時代を意識したアクション・グラマー系女性シンガーが出揃い、百花繚乱の風情となったのである。

 これらの女性シンガーたちには、ふたつの大きな特徴がある。まず「振り付け」。それも、手のフリだけで伝えるアクションが主流となった。金井克子「他人の関係」の交通整理のような動き、夏木マリ「絹の靴下」の手を前に突き出して指を折るポーズ、安西マリア「涙の太陽」の、顔の横に手を差し出しヒラヒラと動かすスタイル、これらは「フィンガー・アクション」と呼ばれ、セクシー系歌手のひとつのアイコンとなった。

 もうひとつ興味深いのは、こういったセクシー歌謡のヒットは、夏に出ることが圧倒的に多い。「絹の靴下」も「涙の太陽」も73年夏のヒットで、山本リンダの「どうにもとまらない」も前年夏のヒット曲である。夏木マリは74年にも夏の勝負曲として「夏のせいかしら」をリリースしている。

 お色気歌謡の時代には、あまりそういう傾向は見られなかったが、ビジュアル系セクシー歌謡の時代に入り、「セクシーは夏」というのが定着したのも、この73年と見ていいだろう。それ以前の「セクシーは夜」から「セクシーは夏」となった始まりは、これもまたザ・ピーナッツ「恋のバカンス」の頃からだろうか。「恋のバカンス」は63年4月の発売だが、夏狙いの作品だったことは間違いない。或いはもっと遡って、「太陽族」登場の1年後となる、57年4月の浜村美智子「バナナ・ボート」がさらなる源流かもしれない。それが夏=開放的=海=水着=ナンパ、といったような構図の中に、女性の開放的な気分をボディ・アクションで表現するセクシー歌謡が定着し始めたのがこの73年で、夏=水着=男性誌グラビア登場、といった宣伝方法とも合致した戦略でもあった。

 この手の「夏の開放感」は、第5章で既述したように、一度GS時代のビート・ガール・ブームを通過している。GSの曲には「虹」「湖」「渚」「太陽」「森」といったキーワードが頻出しているが、女性歌手がこういった世界を歌う「ひとりGS」の場合も同様であった。ことに「太陽」は「太陽族」のイメージを踏襲しているためか、夏の女性ポップスに頻出しており、いしだあゆみ「太陽が泣いている」、響かおる「太陽がこわいの」、田村エミ「黒い太陽」、黛ジュン「不思議な太陽」など数多い。「涙の太陽」ももとはエミー・ジャクソンの楽曲である。そしてひとりGSの真打とも言える美空ひばり「真赤な太陽」をもって、夏の女性ポップスの決定打となる。

 夏の歌は若者向けでもある。この時期からお色気歌謡は、ビジュアル面とアクションを強調したセクシー系歌謡と、夜の街を舞台にホステスさんや愛人を主人公にした、主にアダルト向けムード歌謡ラインのお色気歌謡に分派していった。
 ただ、そういったセクシー歌手の衣装露出が派手だったかと言えばそうでもなく、もちろん大胆な衣装もあったが、基本は裾の拡がったパンタロン姿である。この時代のファッションのトレンドでもあり、一方ではスタイルを良く見せる(脚が長く見える)服装でもあるため、アクション系セクシー歌手はこぞってこのスタイルを採用した。こんなところにも、ビジュアル全体で「見せる」セクシー歌手の方針がわかるようだ。

 そしてこの73年がまさにセクシー歌謡の年=というより、世の中が「セクシー」を許容するようになった異例な時期であったことは、もうひとつの社会現象からも説明できる。
 当時の大人気番組『8時だョ!全員集合』のコントで、メンバーの加藤茶がストリップの真似をして「ちょっとだけョ」「アンタも好きねぇ~」とやったあのギャグである。ここで使用された楽曲はペレス・プラード楽団の「タブー」。もともとはキューバ出身の女性歌手が1930年代に歌ったラテン音楽で、その後57年にペレス・プラード楽団の演奏で有名になった。彼らの演奏は官能的な要素を多分に含んでいることから、日本のストリップ劇場のBGMでも頻繁に使われていたのだが、これを観た加藤茶が、ドリフターズのコントに取り入れ、それが土曜8時のゴールデンタイムで毎週のように演じられるようになり、小学生の子どもたちが一斉に真似するようになったのである。ストリップという大人の性風俗を子どもに認知させる結果になったのが72年から73年にかけてのことである。さらには73年3月には、このコントの大ヒットを受け、ペレス・プラード楽団演奏の「タブー」がシングル化され、ジャケットには加藤茶風の男性が「ちょっとだけョ」ののけぞりポーズをとるイラストが描かれていた。おまけにこのシングルはオリコン最高32位まで上昇するヒットとなった。『11PM』や『独占!男の時間』などのお色気情報番組が隆盛を迎えた時代ではあったが、その傾向がゴールデンタイム8時台まで進出してきたことは、それまでにない現象である。

 変身後の山本リンダの音楽に顕著だが、「じんじんさせて」以降は1曲ごとにその女王様的態度が過激になっていき、最早オナペット的な位置を狙ったものでもなく、男性層に向けて色気を発散するものでもなく、ただひたすらに自身(というか歌の主人公)がいかにセクシーで魅力的な女であるかを誇示する歌に変わっているのは、それ以前のお色気歌手と大きく異なる点である。その分、まだ現実の性体験がない子ども層には「なんだかよくわからないけど、面白い歌」として認知されていたことは否めない。お色気はオモシロと同義語に近い位置まで接近しているのである。加藤茶の「ちょっとだけョ」とリンダの「狙いうち」が、ウケてしまった理由はほぼ同じなのではないだろうか。

(次回更新は5月25日)

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